立派な喪主にはなれそうもない。

「もう1回スキー行きたいなぁ」

父の願いがかなうことはなく、わたしたちを残して父は旅立ってしまった。

その日は朝から雪が降ったり止んだりの空模様。「スキーへ行きたい」と言っていた父への神様からの贈り物なのかも知れないな、病室の窓から見える雪はわたしにはそんなふうに思えてしかたなかった。

お医者さんの「ご臨終です」という言葉を聞いてからはいろんなことが慌ただしく進んだ。

葬儀場へ連絡をして、父を迎えに来てもらい、そのまま葬儀場で打ち合わせがはじまった。

年末に父が入院し、主治医から余命はひと月ほどと告げられてからは自分自身の気持ちの整理と、事務的な整理を進めないといけなくなった。でも、事務的な整理や準備はやっぱり気分が乗らない。例えばそれは遺影用の写真を探しておくとかそんなことも。

葬儀場での打ち合わせはすべてが事務的だ。クルマが買えるような金額を消費するのに、葬儀の打ち合わせにはそんなワクワク感は無い。当たり前だけど。

喪主はわたしがすることになった。

昨夜からほぼ一睡もしていない母のことが心配だったし、これ以上母に負担はかけたくない。

葬儀の打ち合わせ自体はほとんどのことが順調に決まったと思う。もともとうちは親戚の数が多いわけでもないし、なにか細かいしきたりがあるわけでもないから、わたしたち家族の判断で決めることができた。

父が亡くなった翌日が通夜、その次の日が告別式だった。通夜当日の午前中に遺影用の写真を届け、打ち合わせの続き。正午には納棺という予定。

全然、時間が無いな…

わたしは家に帰って、まず父の写真を探すためにPCの電源を立ち上げた。うちにあるのは父が大好きだった孫といっしょに写っている写真だ。新しい日付から過去へとさかのぼっていく。

父の写真を見つけるたびにその時のことが思い出され、あたたかい気持ちになった。その後に同じぐらいのさびしさにおそわれて自然と涙があふれる。

幸いなことに、父の笑顔の写真を見つけることができた。ものすごく自然な笑顔! 「真正面は向いてないけど、この写真どうかな? 」わたしは父だけがいない家族のLINEグループへ送った。すぐに母から返信があった。「良い写真やわ! 」

遺影用の写真が見つかって安心した。ただ、それから先は自分でも情けなくなるぐらい不甲斐なかった。

娘の体調が快くなかったので、納棺にはわたしと息子のふたりで出かけた。葬儀場に到着して、前を歩く息子の背中を見て愕然とした…

さすがに葬儀場でドクロマークは笑えない。大慌てで息子の上着を脱がせた。息子には悪いことをしたと思う。

納棺のあと、通夜まで時間があるのでわたしたちはふたたび自宅へ戻った。喪服の準備をしていたわたしはパニックに陥った。

数珠が無い…

なぜか黒いネクタイも、無い…

結局どこを探しても見つからなかった。わたしは急いで数珠を買いに出かけないといけなくなった。これも幸いなことに、わたしには京仏師の友だちがいる。わたしは彼の工房で数珠を買った。父の法事が続くことになるので、この機会に息子と娘の数珠も。

急いで自宅へ帰り、喪服に着替えて葬儀場へ向かった。

葬儀場で通夜の段取りを確認した。通夜でのわたしの役割の大半は一般の参列者の方のお焼香の時に立礼をするというものだった。遺族の代表として参列者の方へ感謝の気持ちをあらわす大切な役割ではあるが、複雑なことではないので、どこかわたしは安心していたと思う。

通夜がはじまる時間まではまだもう少しあると思っていたら、ひとり、またひとりと父に所縁のある人たちが受付に来られた。そして気がつくと通夜の開始時刻になっていた。

わたしは父が安心して天国へ行けるように、喪主として立派な姿を見せようとした。父が祖母の葬儀で見せてくれたように。

お寺さんの読経が開始されると、さっそくお焼香がはじまった。わたしは打ち合わせ通りに、弔問してくださる方たちへお辞儀を繰り返す。

いつごろからだっただろうか。喪主として立派な姿を父に見せようとしていたのに、弔問客と顔を合わせるたびに涙があふれ、そして止まらなくなってしまった。

こんなにたくさんの人たちが父との別れのために足を運んでくだっていることや、かけていただく言葉の数々が心に染みた。

自分の父親のことをこんなふうに言うのはおかしいのかも知れないが、父は本当に親しまれ、愛されていたんだと思う。そんなことを考えると、涙は流れ、鼻水も止まらない。

わたしが目指した立派な喪主とは全然違う結果になってしまった。

お父さん、ごめん。明日の告別式もお父さんみたいな立派な喪主にはなれそうにないわ。